目次:

Page 1 :  「ヌーベルまんが」 言葉の由来
Page 2 :  「まんが」は女性名詞/「パパの翻訳」
Page 3 :  講談社とカステルマン社がしたこと
Page 4 :  作家のイニシアティブ/art-Link 2001/イベントを始めるきっかけ
Page 5 :  ヌーベルまんが原画展/メゾン・ド・ラ・ヌーベルまんが
Page 6 :  ファブリス・ノーのインスタレーション/日仏学院シンポジウム/プレスの反応
Page 7 :  「ゆき子のホウレン草」/まとめ

  ジュリアン・バスティード(以下JB)- 「ヌーベルまんが」と言う言葉の由来は何ですか? 日本で出版されたご自身の漫画を定義するものとして使われたと「ヌーベルまんが宣言」の中にありましたが、実際、誰が生みの親なのですか?

  フレデリック・ボワレ(以下FB)- 季刊誌「コミッカ− ズ」の元編集長で現「美術手帖」編集長、楠見清氏がこの言葉の発案者です。単行本『恋愛漫画ができるまで』(短編、イラスト、『半分旅行』邦訳掲載)が1999年、日本で出版された際、その帯に当時、担当者だった彼が《MANGAヌーベルバーグの誕生》と書いたのです。私の漫画に対して日本の読者、出版関係者が感じていたものを、この表現に要約した訳です。私の作品が日本に紹介されて2年が経っていましたが、私の描く話はフランスBD風でもなく、日本漫画風でもなく、言ってみれば、絵のスタイルはフランスBDに近いが、日本漫画のように読めると受け取られていました。そしてそのテーマと雰囲気はフランス映画を彷佛させると。

  その後すぐに「ヌーベルまんが」と略され、この言葉は2000年1月、日本のメディアに初めて登場しました。ジャーナリストの住吉知恵氏がモード誌「GINZA」に執筆した《フランスのBDと日本製コミックの結婚、「ヌーベルまんが」》という記事です。
  最近では10月25日・26日、モード誌「Mr High Fashion」(モード、トピックス、展覧会等の通常の見出しと並び、わざわざ「ヌーベルまんが」と別項設置)の『ゆき子のホウレン草』単行本紹介記事、夏目房之介氏が「毎日新聞」に同単行本とイベント「ヌーベルまんが」について執筆した《頑張れ在日フランス人作家》という記事のふたつです。

  JB - これを受けて、あなたは日常を描く作家主義の漫画を「ヌーベルまんが」と呼ぶことにしたのですね。この漫画と新しいフランスBDとの共通性を指摘していますが、「ヌーベルまんが」というのは、日仏の漫画の世界で同時に起きている表現運動、あるいは両国の表現方法を取り入れた新しい漫画の形を意味するとも言えるわけですか?

  FB - 作家主義の漫画というのは普遍性がある、と私は思っています。これは、90年代のヨーロッパとアメリカで生まれましたが、何年か先行していた日本も含んでいます。「ヌーベルまんが」という用語は、ヨーロッパ、日本、アメリカの作家達の共通の問題意識、イニシアティブを表すと言えなくもありません。このアイディアは私が言い始めたものですが、具現化していくとなると、当然、私ひとりの力では無理です。

  目下のところ、「ヌーベルまんが」は、まだ控えめな意味にとどまります。既に述べましたが、 先ず第一にフランスBDと日本漫画の間にあって、日本人の目にはフランス映画のエスプリを漂わせる漫画表現を意味します。今現在、この「ヌーベルまんが」に該当する作家は私、というか、私だけです。ゼロに近い存在ですが、千里の道も一歩からです。

  フランスには日本漫画の絵の表現コードに影響を受けた、新しい世代の漫画家たちがいます。ストーリー的には典型的なフランスBD(90年代初めのマリニ作品を連想する)あるいは、はっきり言ってアメリカンコミック(ごく最近のグレナ社の本に似た)スタイルのまま、日本から来た新しい絵のスタイルやタッチを取り入れています。彼等の漫画は2つのジャンルから影響を受けていますが(グレナ社の場合は3つ)、重要なのは彼等がそれらのジャンルにどんな "貢献" をするかということです。
  日本漫画風の絵によるフランスで描かれた作品は、おそらくフランスBDに貢献したでしょうが、逆に、そういった作品はいったい日本漫画に何か影響を与えたのでしょうか。私は否定的です。今のところ、この日本漫画風の作品はフランスの漫画ファンを喜ばしているかもしれませんが、日本の読者にとってそのほとんどが読解不能です。異様であるとも、とられかねません。

  私の作品を定義するのに「ヌーベルまんが」と言う表現が使われるのは、私の作品がただ日本漫画から影響を受けるだけでなく、なんらかの形で日本漫画に "貢献" しているからだと思います。
  自宅にこもり、机やコンピュータに向かって絵をまねて描く事は楽です。しかし、"貢献" することとは全く別問題です。自分で出かけていって、コミュニケーションをし、相手を理解しようとしなければそれは叶いません。与え、受け取り、交流することが必要です。
  "交流" が私の仕事の原動力になって既に15年になろうとしています。私の "交流" とは、フランスと日本の間の交流、作家とモデルとの交流、作家同士の交流などです。『36 15 Alexia』にクリスチャン・ロッシを迎え、1ページ丸ごとの製作協力を得て以来、新しい単行本を出す度に私は様々な "交流"、また日仏の作家との "コラボレーション" を体現すべく努めてきました。谷口ジロー (『東京は僕の庭』)、エマニュエル・ギベール(『半分旅行』)、福山庸治とやまだないと (『ゆき子のホウレン草』)など、フランスと日本の親しい作家達と共にです。

  "貢献" と "交流" の概念が確立、そして理解され、「ヌーベルまんが」が "許容" と "意志" を意味するものになれば、該当するのは私ひとりではなくなります。こうなれば既に多くの先駆者がいますし、多分、後継者も多く現れることでしょう。

  先駆者の一人として、私はもちろん谷口ジローを挙げます。彼を知ってはや10年。初めて出会ったのは1991年1月、彼が二人の日本人作家と共に招待されていたフランスのアングレーム国際BDフェスティバルでのことです。その年、フェスティバルは日本漫画をテーマに取り上げており、当時の極一部のフランス人ファンには嬉しい事でしたが、一般大衆やメディアは全体的に無関心でした。2年後には日本漫画 "ブーム" が起こるのですが。

  当時のフランスの一般大衆は、多分日本のテレビアニメなら知っていても、紙媒体の日本漫画などその存在すら全く知らなかったのです。日本漫画ファンも結局のところ、大友克洋や士郎正宗など2〜3の漫画家一辺倒でした。面白い事に、これはフランスBDに関する現在の日本の状況と全く同じです。ほとんどの日本人はフランスBDというものがあることさえ知らず、数少ないファンでさえも、結局のところ2〜3の "フレンチコミック" 作家しか挙げられません。
  幸い、日本の全てのフランスBDファンがそうというわけではありません。少なくとも一人、よりグローバルで正確な物の見方を持った人物がいます。それが谷口ジローです。10年前、私は会ってすぐ、彼の探究心のある眼差しに心を打たれました。彼は当時(実際、今もですが)日本のフランスBDファンには全く無名の優れた作家達を知っていて、評価していました。例えば、80年代に日常と言うテーマを扱った珍しい作家のひとり、才人・ティトです。
  この探究心のある眼差し、そこから生まれるエスプリの広がり、そしてフランスやヨーロッパの作家とのコンスタントで意欲的な交流・コラボレーション(私の単行本『東京は僕の庭』での素晴らしいトーンワークのほか、彼はメビウス原作『Icare/イカル』で作画を担当)により、谷口ジローは私にとって「ヌーベルまんが」生粋の、兄のような存在に思えるのです。

  あなたの質問に戻リましょう。このエスプリや表現運動云々を抜きにしても、「ヌーベルまんが」は、1つのキーワードとしての役割があり、その目的は、フランスBDと日本漫画にはもっと良いものが他にもあると言う事を日仏両国に知らしめる事です。
  キーワードの観点で見ると、既に成果があります。この表現のおかげで、小さな寄せ集めのグループが、今までどんな業界関係者(エージェント、出版社)、団体、フランスや日本の公的機関、そして1998年の「日本におけるフランス年」さえも試みようとしなかった事を、やってのけたのです。フランスBDと日本漫画の2週間に及ぶフェスティバルです。4つの地区にまたがり、4つのエキスポ(そのうちの1つは東京芸大)を開催し、フランスの第一線の作家/出版社を3名招待しました。このインタビューの後半で、このイベントの総括をするつもりです。

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© 2001 Julien Bastide / Frederic Boilet
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